展覧会情報
2016年 八田豊 活動計画 第24回国際丹南アートフェスティバル2016
【福井武生展】4月30日(土)~5月8日(日)/越前市民ホール、日野川河川敷公園
【大阪小品展】8月2日(火)〜7日(日)/LADS ギャラリー
【神戸巡回展】11月13日(日)~11月20日(日)/BBプラザ美術館
2015年 八田豊の活動 丹南アート上牧谷ギャラリー開設記念展「八田豊と福井の作家たち」
丹南アート上牧谷ギャラリー(4月12日~5月10日)
素材と表現 展 -北美からの流れ- /福井市美術館 アートラボふくい(5月2日〜6日)
    第23回丹南アートフェスティバル2015小品展(8月16日〜22日)
八田豊展 /LADS GALLERY(8月23日〜9月6日)
八田豊展(10月3日~10月14日)
 第一会場:黒会場 sorara gallery 西隣店舗
 第二会場:白会場 スペースおいち(アップルビル2F)

八田豊の世界

建畠 晢

 

八田豊を知るようになって十年近くになる。いや“知って”ではなく、彼の磁力に“捉えられて”以来十年が経ったというべきかもしれない。この希有なアーティストの回りには、不断に強力な磁場が発生しているのだ。武生という彼が住む町の名を聞いただけで、八田豊という存在から発散する法外なエネルギーを思い浮かべざるを得ない。磁場と言う言葉は何も大仰な比喩ではなく、彼のアーティストとしての活動を語ろうとすれば、自ずとそのような形容に行き着いてしまうのだ。

この地域の多くの若者たちが、時には反発も含めて、彼の磁場の中で自らの場所を定めている。そのパッショネイトな光景は、他の都市から訪れたものを圧倒せずにはおかないだろう。八田豊は持続する志を持ったアーティストであると同時に、卓越したオルガナイザーであり、戦い方に熟知した軍師であり、懐の深い教師でもあるのだ。

しかし誤解してはなるまい。この前衛美術の磁場は、実は彼一代にして形成されたものではない。福井の前衛美術を大正期から指導してきた土岡秀太郎という大先達の薫陶を受けることなしには、八田のアウラもこうは輝きを持ち得なかったに違いない。大いなるカリスマから継承された八田の啓蒙家としての姿勢については、ご子息の土岡秀一氏の稿にまかせることにするが、優れた指導者がいたからこそ、地方都市ならではの求心力がより強力に働いたのだという事実をまずは指摘しておく必要があるだろう。

さて、50年代から今日までの八田の制作の軌跡は、大きく四つの時期に分けて考えることができる。

土岡が福井の戦後の前衛美術の拠点となる「北美文化協会」を創設したのは1948年だが、八田は金沢美術工芸専門学校を卒業した51年にその会員となり、また53年には創元会にも出品して、構成主義的な傾向を持った具象絵画を発表するようになる。その時期の作品は残念ながらまだ図版でしか見る機会がないが、たとえば「群像」(1957年)はキュビズム的な形態が強い描線によって捉えられており、堅牢な色面と相俟って、この画家の造形的な骨格の確かさを感じさせる作品である。

しかし彼が自らの世界を確立したのは、60年代の前半に抽象絵画へと向かい、円のモチーフが現れるようになってからであろう。当初、それは単円や同心円と抽象表現主義的な動勢のある筆蝕とを共存させたものであり、その限りではネオダダを思わせる表現でもあったが(63年の「NON」、「01」など)、64年には筆触の要素を廃した、より幾何学的な円による構成へと展開することになった。  絵筆を捨てるという決断は、きわめてユニークな技法による表現を八田の作品にもたらしている。彼はキャンバスに変えてパルプボードを用い、その上に水性塗料による平滑な地塗りを施してから、コンパスによる円を少しずつ規則的にずらしつつ、地塗りを削って描いていくのである。その製図的な正確さを持った緻密な反復作業によって生み出されたトポロジックに湾曲する空間は、知的でクールな感覚をたたえていると同時に、また独特の有機的なボリューム感や重なり合う線のモアレの不思議な効果を印象づけずにはおかない。

同じ技法は、60年代後半には真鍮やアルミなどの金属板の支持体に対しても用いられるようになった。無数の線が交差する繊細にしてダイナミックな画面は、刻まれた線の集積に美しい反射光を帯び、絵画的な陰影法とは全く異質の、どこか神秘的ですらあるイリュージョンを出現させている。

この視覚的な揺らぎをいわゆるオプ・アート的な実験と見ることは可能だろう。だが金属に線を刻むという過酷な手仕事を思うなら、彼の画面は単なる網膜上の現象を超えた、いうならば禁欲的な思索に耐える求道者にも似た強靭な意志によって貫かれた世界でもあったはずだ。また考えようによっては目の快楽である装飾性を荘厳な思想へと深めえた、日本の美術の伝統に連なる表現でもあり、ニューヨークからのイズムの移入ばかりに終始していた当時の前衛美術にあっては、いかにも例外的な孤高の作業であったといわなければなるまい。

次の大きな転機は、80年代の終わりに訪れた。視力を失うという困難な状況下で、八田は再びタブローの世界に挑戦し始めるのである。「流れより」と題された90年代初めのシリーズでは、時には驚くべきことに鮮やかな原色を用いて、触覚を便りに大胆なストロークを走らせ、流動感のある華麗な空間を生成させている。理知的な方法論に徹する一方で、八田はまた描くこと、制作することの身体性に深く依拠しているアーティストでもあるのだ。こうした両面性こそが、彼の一見明快な作品に豊かな奥行きと芳醇な魅力とを与えているといってもよい。

90年代の半ばからは、八田はもっぱら和紙による作品を集中的に制作するようになった。これも指先の感覚によって、支持体の上に粘土状の紙のパルプを微妙な凸凹を測りつつ付着させ、あるいは原材料である細長い帯状の楮の皮を貼り付けるという、絵画的なペーパーワークである。

土岡は79年に没したが、八田はその遺志を継ぐように「今立紙展」を発足させ、さらに93年には「丹南アートフェスティバル」を創設した。彼がこれらの展覧会で重視しているのは、素材そのものの持つ力である。視力の喪失によって、美術における触覚的な要素の重要性に改めて目を向けたともいえようが、彼の問題意識は何もそればかりではない。情報と産業の集中する大都会とは異なって、「生きた素材が地方にはある」と彼は語る。あくまでも地方における前衛の可能性を希求する土岡の教えを、自らの活動の中軸に据えているがゆえの素材主義なのだ。

彼の紙の仕事もまた、理知的であり身体的であるという両面性を宿している。デリケートさ、清楚さと豊穣な力とが、ここでも美しく一体化しているのである。八田の人となりは、遠目には豪放磊落な武人だが、身近に接すれば感情の機微を理解する寛容な包容力の持ち主であり、そうであるからこそさまざまな障害を克服して、かくも粘り強い自らの作品の展開と、オルガナイザーとしての求心力を維持し続けえたのであろう。

土岡から継承された八田豊のアウラ。それはこの地域以外に類例のない強力な磁力を発して、今なお私たちを引き寄せずにはおかないのである。

 

美術評論家・京都市立芸術大学 学長・埼玉県立近代美術館 館長 建畠 晢
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